運動が苦手な両親の子供

私は子どもの頃から運動が全般的に苦手である。

体育の時間がどれほど嫌だったことか。
そんなこともあって、大人になってもスポーツは好きではなかった。
テレビのスポーツ中継等も全く興味がない。
そんな私と同じように、主人も全く興味が無い人であった。
そんな二人の間に生まれた子供である。
我が子もやっぱり運動はダメだった(笑)
でも、それを責める気などさらさらない。
嫌でも苦手でも、とにかくきちんとやっているその部分を評価していた。
主人も同じ気持ちであったと思う。
ところが、どういうわけか子供が今年になって突然やる気を出した。
マラソンでも運動会でも水泳記録会でも、ビリしかとったことがなかった子が、大会に備えて走りだしたり泳ぎだし、気が付けば選手に選ばれていた。
最初はそれを信じることができなかったのだが、どれも本当だった。
子供の成長とはまさに未知数である。
彼女が運動会で2位でゴールした時、私は恥ずかしながら号泣してしまった。
もともと得意な子が出した成績ではない。
朝5時に起きて走り、帰宅してから走り続けて獲得した成績なのである。
泣きごとは一度も言わなかった。
私は、今年の事は一生忘れることはないだろう。
たとえ子供が今後ぱっとしない子になっても、この一年を知っているのでそれで十分だと思うであろう。
私はアドバスをすることは一つもない。
何をどうしたら良いのか、悲しくらい分からないのだ。
それを申し訳なく思う。
その分、美味しいものを用意して学校に送り出しているのである。
「無理スンナ、でもガンバレよ」とあれこれと思いながら。

平等のあり方

最近、学校の運動会などで行われる短距離走などで参加者全員を同時にゴールさせるなどというケースを時々耳にします。
この驚くべき試みは全員を一位にして平等にしようという考えからくるものらしいのです。

しかしこれはどう考えても悪平等ではないしょうか。
私自身、運動が苦手だった側ではあるのですがそれでもこれはおかしいと思います。
仮にこの考えを貫き通すのであれば試験の成績すらも平等に扱わなければ理論的におかしいはずですがそんなことが出来るはずもありません。
本来学校というものは社会に出るまでの勉強、訓練の場所であるべきもの。

どこの世界に社員全員の給料を平等にしようなんていう会社があるでしょうか。
このような善意の押し付けはもはや子どもたちの成長の阻害でしかなく、決して許されるべきものではありません。
もしこのような考えが一般的になれば、このことに関する一番の被害者は若いうちに競争原理を学ぶことが出来なかった子どもたちなのです。

世界では、毎年様々な分野で活躍を見せた方々に贈られる栄誉のある賞がいくつもあるものです。
しかしこのような賞はあくまで結果でしかないもの。
行動や研究の成果に賞は贈られるものであって、賞を受けるために行動や研究をするものではありません。

しかし上記のような例で教育を受けてしまった子どもたちにはこのことすらも分からないかもしれません。
そのようなことがないように子どもたちには若いうちから競争原理をしっかりと学ばせ、競争を勝ち抜くための勉強や大志を身につけさせるべきなのです。

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